記事のタイトルに対する信念

先週あたりから一旦在宅勤務に戻ったのだが、自然と早朝散歩が復活し、自炊と筋トレ習慣が戻ってきた。あと無駄に英語に触れる習慣を増やしていたら夢にまで出てくるようになってきた。肌感としては上達してる気はせんのだが、これもよし。

そういえば、また土曜日に業者が来ることになった。

一部張替えということができないらしく、もしダメだとなれば全貼り替えらしい。そうなったら全部荷物搬出して大規模にやる必要があるそうだ。こちらに落ち度はないのですべての作業や費用は管理会社持ちだそうなのだが、その間俺はどこに住めばいいの。

いっそ引っ越してもいいかなくらいに思ってるわけだが、部屋はリフォームしたてで綺麗だし、狭いけどこの狭さもかわいいし、なんたって安いし一旦踏みとどまるか。次のプロジェクトのメイン会場が晴海方面だからちょっと距離があるのが難点。

この辺りの賃貸はめちゃくちゃ値上がりしているそうで、そこにきてマイナス金利政策解除でしょ。今から物件探しても見つからんでしょ。

なんかこういうテーマ性のない日記みたいな記事書くの嫌だったんだけど、結果そうなってた。
こうなるとタイトル付けられないんだよね。一旦書き出してしまうとダラダラペンだけが進んで、中身のない雑記みたいなのができて、「タイトル:雑記」てな具合になってしまう。これは本当によくない。

ここを立てる前に2年くらい続けてたブログがまさにそうだった。ほとんどの記事のタイトルが「雑記」とか「無題」で、今日の出来事とかをただ書くだけ。それはそれでジャーナリングとしての役割は果たしていたと思うが、あとから見返したときに「何これ小学生じゃん」と思って閉じた。

他人から見れば、ココも大差ないのかもしれないが、自分としては、ノータイムで本文から書きだすのではなくて、テーマ・タイトルを決めて書き出すというこのプロセスの違いに価値を感じているってわけ。そうすると、タイトル対自分になる。自分はどう思うかをもう一人の自分が問う。すると考えるというほどよいストレスがかかる。そこに違いがあるんよ。

にしても今日はどう見ても雑記よな。それっぽいタイトルつけとくけど。

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