「あのチェンソーマンの藤本タツキ先生の名作ルックバック、ついにアニメ化!」と言われても全くわからないのだが、先月くらいから話題になっていたことは何となく聞こえてきており、昨日鑑賞してきた。「開始5分で泣いてしまう」という前評判も知りつつ、それはないわと身構えて。
ところが、だいぶ序盤でしっかり泣いてしまった。さすがにちょっと悔しいので、この涙の正体を言語化しておきたい。
1.藤野に自分を投影したのか
否、それはない。僕は学業・スポーツ・その他において学年を代表するような経験や功績はほとんどなく、ゆえに突如現れた天才にその立場を奪われるという経験もない。ほとんどの人はそうなんじゃないかと思う。だから、藤野に対しては、憧れこそあれど自己を投影する対象としては存在が大きすぎる。藤野は学年のスーパースターって感じだから。
2.京本に自分を投影したのか
否、これもない。僕は、京本のようなかっこいい生き方はできなかった。京本は、学校に行かず家に引きこもり、好きを貫いた。その結果、ある分野において学年のスーパースターを凌駕した。僕はバランスや人目を徹底的に気にする気持ち悪い子どもだったので、そんな極端でかっこいい生き方はできなかった。
結果、藤野や京本のようなかっこいい奴らに自分を投影できるほどイケてる人生ではないことは明らかである。そこまでの傲慢さはない。
3.たぶん、後悔や羨望
二人のようにかっこいい人生を生きたかった。そういう悔しさに涙したのかもしれない。僕は好きなことに対して、「自分に正直に誰に何と思われようと1人でもがんばる」ことが全くできなかった。本当はバスケが大好きだったのに周囲に流されて野球に行った、本当は勉強したかったのに周囲に流されてやんちゃをした、本当はもっとリーダー経験がしたかったのに手を挙げず誰かが推薦してくれないかと斜に構えた。僕は誰に指導されたわけでもないのに自らこうしてバランスをとることを最重要視していた。
あぁ、自分は何てつまらない人生だったんだろうか。当時、僕が心の中で見下していた「いつも1人図書館で本を読んでいる人」、「昼休みに1人で自由帳に絵を描いている人」、「女子にキモイと言われても昆虫の剥製づくりをやめなかった人」が、こんなにかっこよかったなんて。
知らなかったよ。
大人になったからわかる。誰に何と言われようと1人で頑張っているやつが一番かっこいい。子供のころは知る由もなかった。友達に囲まれて大人の顔色を見ながらバランスよく生きてる自分が一番イケてると思ってた。
このアニメを見て出てきた僕の涙は、藤野や京本へのいわゆる自己投影とは違う。単なる後悔と羨望だ。子供のころから、こんな風にかっこよく生きたかったという後悔と羨望。
今ならわかる。藤野のように、京本のように、自分に正直に生きてる奴が一番かっこいいと。