人様に迷惑をかけるな

どんな親も、程度の違いはあれど「人様に迷惑をかけるな」と子を教育しているだろう。そうやって教育された僕たちは、「人に迷惑をかけないこと」は一定上手にはなったが、それと同時に「他人がかけてくる迷惑」を許せなくなった。

僕は時間を守っているのに彼は守らない。
僕は並んでいるのに彼は並んでない。
僕は静かにしているのに彼はうるさい。

僕も同じで、約束やルールを守れない人には、しっかりイライラしている。一応弁解しておくとこれは瞬間的な反応であって、すぐにもう一人のメタな自分が必ず負の感情を打ち消してくれる。

これを想像力で解決しようとしていた時期がある。たとえばこんなふうにだ。
時間を守らない人は電車が遅れたのかもしれない、うるさい人は場を盛り上げようとしているだけかもしれない、割り込みしてきた人は列に気づかなかっただけかもしれない。

でもこの考え方はうまくいかなかった。場面場面で考えることにめちゃくちゃ疲れるからだ。あてはまる想像が出てこなければやはり負の感情に負けてしまう。僕が見ている景色や状況が容赦なく寛容さや冷静さを奪いに来る。

もっと根本的な打ち消し方はないだろうかと考えた。そこで思いついた解決策は、僕と同じ世界の見え方をしている人はこの世界に一人もいないと決めることだった。そもそも同じ景色を見ていると思っていたことが勘違いだった。同じ正義・同じ価値観で生きている人は世界に一人もいない。これは決めの問題で、場面場面の想像力はいらない。

他人が時間を守れないことも、ウソをついていることも、間違っていることも、合理性のない判断をすることも、すべては僕の物差しで測った結果だ。しかもこの物差しは、きわめて偏り屈折している。だって身内なら許せて他人なら許せないのだから。気分の良いときは見過ごせて、そうでなければ見過ごせないのだから。

最初からそう教えてほしかった。自分の物差しが世界に一本の偏屈したものであると教えてほしかった。「他人に迷惑をかけるな」というのは道徳でもなんでもない。いや道徳かもしれないがクソほど役に立たない道徳だ。

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