人がお亡くなりになったと聞いた時、「何歳で、どんな人だった?」と聞くことにしている。
父方の祖母が亡くなったとき、僕はまだ小学5年生だったが、当時の担任の先生が、「おばあちゃんは何歳だった?どんな人だった?」と聞いてきて、心にもなく「よくわからない」って答えたことを鮮明に覚えてる。
でもその質問自体はその後も心に残っていて、確かに質問としては「どんな人だった?」という祖母の性格や人生を聞いているような質問ではあったのだが、そんな大人っぽい答えは不要で、僕は単純に「大好きだった」と答えるだけで良かったんだなと、随分とあとになってから理解した。
人に質問されることで、故人を思い出す時間が増えるというのは、多大な貢献だと思う。人によっては、つらい思い出をほじくり返したように感じるかもしれず、そのあたりは距離感の見極めが必要になるわけだが。人に聞かれて初めて、どんな人だったとか、自分は好きだったとかをはっきりと自覚できて、「あぁ、お別れなんだな」と認める瞬間づくりに貢献出来たりする。
たとえるなら、ガールズトークで一人が「彼氏ができた」と言えば、周囲は合いの手ですかさず「どんな人?」と聞くのはほぼお決まりのルールと言っても過言ではないと思うが、それと同じだ。その質問に対して答えを考え言語化することで、「好き」を自覚するのだ。
亡くなった人のことを自分にとってどんな人だったのか考える瞬間を持つことが、お別れの準備に役立つことがある。当時の僕の担任の先生がそういうつもりだったのかはわからないが、その質問がなければ、僕は好きを自覚することはなかったかもしれないなと。
僕らは、死の話になると突然タブー視して黙り込む癖がある。沈黙こそ美徳的な。だけど、本当は残された人の感情こそ科学で計算できないことであり、そういう部分にこそ人間同士の対話が必要なんじゃないかと思うわけだ。終末医療っぽい考えを、お別れ後に対しても適用してるみたいな感じ。
転じて、僕もそろそろ死ぬ準備を始めないとな。誰かが誰かに「彼はどんな人だった?」と聞いたときに「ヤツは○○だったなー」と笑って言ってもらえるような人生にしたい。
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