(モノへの)「こだわりが強そう」と言われたのだが、こだわりなんかむしろ無いほうだ。
たとえば、洋服は公私において全身ユニクロで、普段着は全身コーディネートで1万円以内。
めちゃくちゃ決め込んだスーツスタイルですら3万円といったところ。
靴はお気に入りのスニーカーが5千円、革靴は3千円。それぞれコスパ最強のコレだという一足を決めているので、それらをいくつも買い置きしてある。
ヘアスタイルはQBハウスで1200円でカットしてもらうだけで、特に何のリクエストもない。
食事は一番安い肉と一番安い酒で満足。
アパートは地域で一番安い狭小物件でOK。(ウォシュレットだけは必須)
車は走ればなんでもいい。
ブランド物は虚構か詐欺であり近づかないようにしてる。
こんな感じで、一般の成人男性と比べればこだわりの度合いは低いと思う。
しかし、だからといって身なりがテキトーで会う人への敬意を欠き、人を不快にさせるような外見でよいとは思っていない。そのあたりのバランス感覚は維持しているつもりである。
そもそもお金の使い道として、たかが自分が所有するブランド品てのは、これほどレバレッジが低いものはないと思うわけである。そこに圧倒的にファンクショナルな優位性があるならばべつだが、過去記事でも何度も触れたように、機能性を模倣することが過去イチ容易となった現代において、高価だから・ブランドだからモノが良いという図式は完全に崩壊していると思うわけだ。
だから、そんなことよりは、アソビや体験にこだわりを持ちたいなと思う。
大切な人との旅行で、ちょっと良いホテルに泊まる、ちょっと良いサービスを受ける。
仲間との食事で、ちょっと良いディナーを計画する、ちょっと奮発する。
若いころは特に、こうした刹那的な瞬間に対するお金の使い方は「散財」に見え、逆に所有するものの価値を追求することが「投資」に見えたものだが、今となってはむしろ逆で刹那の連続に輝きを作ることこそが人生における「投資」であって、たかが所有するものにこだわることこそ「散財」なのかなと思ったりする。
たぶん、年老いたんだな。