隠しきれない育ちの良さ

今朝、宿泊しているホテルの朝食レストランで、一人で食事する女性が小さな声で「いただきます」といって手を合わせる姿にキュン死した。

こういう隠しきれない育ちの良さが好き。なぜなら僕にはないからね。

僕は、人がいれば「いただきます」も「ごちそうさまでした」も自然と言えるし、コンビニでのお会計でも必ず感謝を伝えるのだが、まさか一人の食事で声と所作をもってこれほど美しく表現できる人がいるとは、やはり僕のそれらは所詮偽善だったんだと思い知らされる。

相手がいないのに発言するという価値観が、全くない。
そもそも、食事のことであれば作ってくれた人への感謝はあれど、大地の恵みに対する感謝で「いただきます」「ごちそうさまでした」と言った経験は、一度もないと断言できる。

だから所詮は、人間関係の維持や人からどう見られるかといった卑しい自己の利益のために感謝を表現しているに過ぎなかったんだ。心の底ではそんな気もしていたが、今日それがはきとした。

少し前に、飲食店で「ごちそうさまでした」と言う言わない論争があった。
「言う」派が「言わない」派を傲慢だとか育ちが悪いとか非難したり、あるいは逆に「お金払ってるから言う必要ない」と炎上必至の弁明したりと見苦しい争いがあったわけだが、そんな言い争いをしているようでは皆々僕と同じ偽善だなと思う。

キリスト教は好きだがキリスト教信者は嫌い。
これと同じで、「教え」そのものを否定はしないが、「布教」が目的の人とは付き合えない。

脱線したが、育ちの悪さも隠し切れない場合があるので気を付けよう。

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