真面目の価値が変わってきた

子供の頃、真面目でさえいれば大人はほめてくれた。その頃の自分にとって、大人が褒めてくれるということは道が拓けるということだった。それは具体的に言えば、通知表の評価になって返ってきたり、皆の前で表彰されたり、それが自信になって次の挑戦ができた。

当時は、大人の世界も同じだったんじゃないかと思う。真面目に働けば報われた。
他者を圧倒する営業トークとか唯一無二の開発スキルとか、そういうことじゃなくて、ただひたむきに時間と体力を投下して真面目に頑張ることができれば、それで報われる世界だった。だから、真面目な人を育てることには意味があった。
社会全体が、真面目な人を応援する余裕があったんだなと思う。

もうこれがない。社会全体がまじめな人に報いを与えるような余裕がない。
年金の仕組みなんかは典型だ。お国のご指示で収めていたのに、消えた・もらえない・定年引上げと暴挙暴論に今や驚きもない。新卒入社した会社にすべての人生をささげれば昇進や退職金が約束されていたはずが、今や転職で自分で未来を切り開くのがむしろスタンダード。銀行にお金を預けておけばイイ感じに資産運用してくれるはずだったが今や雀の涙(どころか涙も出ない)。一方では、真面目とは正反対にいたような人たちが、インフルエンサーとかいう謎の職業で社会的な成功を収めている。

真面目さは、生きづらさ。
真面目さをほめる教育は、ここらで一旦終わりなのかと思う。
子供は純粋なので、真面目さを評価されればまた輪をかけて真面目であろうとする。
真面目さが道を拓く武器だと勘違いしてしまう。

無論、真面目が悪いことでは全くない。言いたいことは、学校・政治・銀行・会社といった、昭和平成の権威に期待する時代はとっくに終わっていて、今なおそれにすがろうとすることはもはや依存ですらある。むしろそれらを利己のために利用するくらいのずる賢さを持つべきだ。

真面目は生きづらいのだから。

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