鋼というより暖簾かな

精神的に強いことを、鋼のメンタルって言ったりする。
昨日仲間が精神削られてる様子だったので、「ハガネって感じではなく、のれんって感じが楽でいいですよ」と伝えてみた。

暖簾のメンタルをもうちょい言語化してみたい。

一般にメンタルが削られる場面×自分がスッと暖簾になれるシーンを以下に取り上げる。

1.他人の怒りの感情を目の当たりにしたとき
怒りのお気持ち表明をしている大人を見たとき、その怒りが自分に向いてるとわかったとしても、特に恐怖とかは一切なくて、「あぁ、自分で自分の機嫌をとる手段を身に着けず大人になったんだな」と、それしか思わない。
たとえばこれが、ナイフをもって振りかざそうとしているなら話は別だが、大抵の大人は「機嫌」や「口調」という名のお気持ち表明をもって攻撃してくるだけであって命までは取られやしないのだから、「可哀そうに」としか思えないのである。
これについては訓練したわけじゃないんだが、自分自身が他者への怒り表明を全くやらないように徹底できるようになったら、自然と相手の怒りも右から左へ流れるようになった感がある。だからまずは、相手の怒りをどう処理するかを考えるより、自分自身が怒りそうな場面に出くわしたときに、(ここでお気持ち表明するのは自分は馬鹿ですと言ってるに等しいことだ)と悟ってスッと引けるようになったら、以後他人の怒りを受け止めることもなくなる。

2.仕事で結果がでないとき
一旦テキトーにやると決める。結果=パフォーマンス×運だから、自分の能力だけでどうにかなると考えること自体が傲慢だ。そんでもってこれまで10年以上の社会人キャリアにおいて、失敗局面が一生続くみたいなことはなかった。一旦テキトーにやってるうちにどうせ成功局面がくると頭と体で理解してる。
テキトーにやるとは、質を落とすことではなく感情なしに淡々とやるということ。
世界に轟くファーストリテイリングの社長でさえ一勝九敗。
自分程度の豆粒がこれより高確率で結果を出そうなんて片腹痛い。

ハガネとかノレンとか、その表現自体はさほど重要ではないが、耐えるって感じよりはスッと引く感じができるようになった。
そうでもないとやってられない社会になったのかもしれないな。不寛容な社会への順応?
ひょっとしたらこの変化は自分だけじゃないのかもしれない。

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