考えてみれば、寝てる時間以外は、ほとんど液晶を見ている。PC、スマホ、テレビがある人はテレビもだけど、我々はずーっと液晶を見てるだけの人生になってる。
もちろんね、ぼーっと黒い液晶見てるだけの時間なわけはないんだけど。
大切な人との連絡、スケジュールの確認、お買い物、エンタメ、読書、仕事全般、いろんなコンテンツや用途があるけれども、でもでも考えてみれば、ここ20年間くらいで僕がもっともたくさん目にした「何か」を1つ挙げるとすれば、間違いなく液晶画面だ。そう思うと、めちゃくちゃ空しい。
もし「液晶」の対の概念として、「体験・経験・実物」みたいな概念があるとし、それらはいずれかを100%自由意志による選択ができるとしても、自分なんかはもはや条件反射と言っても過言ではない速度で、「コスパ」による判断を下している。
それはつまり、旅行に行けば実物を見れるかもしれないが、瞬時に「液晶」で楽しむことを選択している。そうすると、僕の感受の限界は、液晶の性能次第ってことになる。
これがもう詰んでいる構造だってことに、やっと気づいた。仮に液晶の性能が低ければ、高い感受は得られない。だから液晶にはできるだけ高い性能が必要だ。だが、液晶の性能を高くしようと思えば、「体験・経験・実物」への投資モチベーションが下がる。つまり、液晶の性能が高くとも低くとも、もう「体験」に戻ることはできない、
世界中のほとんどの人は、液晶画面をみてるうちに人生が終わる。人生の3分の1はベッドで過ごすとよく言われるが、残りの3分の2は液晶を見て過ごすといって過言ではない。
食事中、移動中、仕事中、トイレでさえも、あるいは家族や大切な人と過ごしている時間でさえも、液晶・液晶・液晶だ。
液晶によるシャブ漬け戦略、液晶の奴隷。今日も明日も明後日も。液晶液晶液晶です。