社会進出は、本当に「輝き」なのか

前提として、女性の社会進出、賛成です。雇用機会均等法・ダイバーシティ・ジェンダーフリー、多様性社会、もちろん全部賛成です。

だけど、社会進出=輝き については懐疑的。
もしかして、社会に進出した人で輝いているオトナにあまり出会えてないんだろうか。

くたびれたスーツを来て満員電車にゆられ、社会や会社に不満を募らせながら自分の問題には向き合おうとせず、どう寛容に見ても格好良いオトナには見えない人で、世界は溢れかえってる(ように私は見えます)。

それでも、社会で働くことが「輝き」であるとするのは、国家や資産家による労働者階級への一種の洗脳もあると思う。それが「輝き」であると言っておけば皆そこを目指すはずであると。皆がソコを目指してくれないと国家は滅びると。

転じて、小学生はどうしてあんなに輝いて見えるんだろうか。
もちろん、我々動物には肉体的な若さや健康さを「美しい」と感じる本能が備わっているので、必ずそう感じるようにできているわけだが。

それを差し置いてもそこに輝きを見出すのは 彼らがまとう か弱い命 への不安感 だと思う。「自分は生き残れるか」という子供独特の不安感が、輝きの源泉だと感じる。

また少し視点を変えて、戦後~高度経済成長期は、社会は輝いてたんじゃないかと思う。これも背景にあるのは「生命への不安」が源泉だったんじゃないかと思う。
「この先どうなるかわからない」「明日生きるお金を今日稼ぐ」といった、まだまだ低次元の不安感。

現代から見て「経済成長=輝き」ってのはまやかしというか結果であって、むしろ不安感が輝き。生命の不安と輝きが表裏一体、光と影であると。

俺は、働く人が輝くには現代は便利になりすぎてしまったんだと思う。
国は豊かになったし適当に就職した会社で適当に過ごせば野垂れ死ぬことはないし、高次元の不安はいくつでも見つかるが、低次元の生きる不安はなくなった。これが、輝きのない社会の根底にある状態。

豊かになった国が絶対にたどる宿命?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA