念のため撮る写真と同じ

ちょっと今日は無理だった。3回目接種のときほどではないが、あのとき無茶して出勤したトラウマがあるので大事をとって休む。
首と腰が痛い。震えながら寝たから硬直したかな?
あと喉が渇く、目も乾く。何もしたくない。

まぁそれでもとりあえず今日も何か書こう。
何もしたくなくても、活字は好きだ。特にこうして体調の優れないときに活字に癒される感がある。(これ共感できる人けっこういると思うんだけど)

映像と違って自分のペースで消費できるから疲れない。

たとえば皆さんスマホでパシャパシャ写真を撮るじゃないですか。
俺も同じでパシャパシャ撮りますよ、撮りますとも。まぁ一応撮っておくみたいな感覚で。
撮ったからといって、その時点では誰かに共有しようとか、SNSに上げようとか、さほど重要な使命ではない。でも、一応撮っておく。

自分にとって、活字(日記、ブログ)も同じ。
活字で思考を記録しておくことは、この「念のため撮る写真」とほぼ同じ。
ここに書いたからといって、誰かに読んでもらったり評価してもらったりすることは考えていない。
ただひたすらに「活字にしなかった思考が消えていく恐怖」を克服する手段として利用している。昔から、記録しておくことに対してはまぁまぁ執着のあるタイプだと自覚しているが、最近になって特に、思考ってやつは写真と同じように極めて「刹那的」なものだと考えるようになった。
一つには、老いによる短期記憶力の低下は否定できない。紛れもない事実だ。
さっきまで考えていたことがパッと思い出せなかったり、イイ感じに深いところまで考察すると入口まで戻れなかったりすることが多い。

しかし、もう一つ言えることがあるとすれば、老いてなお興味の範囲が広がっているという希望がある。興味の範囲は外界との接地面。接地面積が増えていくと情報処理が追い付かない。
そうした情報は「活字にしないと消えていく」のだから、怖い。

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