『ケーキの切れない非行少年たち』

序盤でのRey複雑図形の模写結果には、正直驚いた。

この模写結果は、当人がお手本と比較して「できた」と感じているならば、見ている景色が違うって解釈でいいと思うんだけど、「うまく模写できません」だと、見ている景色は同じだけど上手に出力できないってことになる。

振り返ってみると、小中学生の頃、1人思い当たるユニークな子がいた。当時は何とも思ってなかったが、この本を読んでいる最中はずーっと彼のことをイメージしていた。

その彼は、小学校低学年レベルの計算ができず、算数のテストは毎回30点以下だったと思う。
答案用紙を何度か見たことがあるが、特徴的だったのは、筆圧が強くて一文字一文字が力強いのだが、真っすぐかけていなかったり、サイズがバラバラだったりすること。また、消しゴムで何度も消してやり直したような跡がたくさんあり、本人なりに一生懸命やってるんだろうなというのは理解していた。
普通に仲良く接していたが、中学の最後の頃はあまり覚えておらず、進学先も把握していない。

今考えると、恐ろしく苦労していたと思う。運動も力加減が上手ではなかったし、対人関係も(今思えば)あまり目が合わずいつもきょろきょろしてた。
彼にとってみれば、授業中だけではなく、昼休みに誘われるバスケとか鬼ごっこでさえ苦痛の時間だったのだろうかと思うと、心が締め付けられる。
だけど、これだけは言いたいのだが、みんな仲良しで彼を悪く言う人はいなかった。それだけは幸いだと思う。そこで友達がいなかったらと思うと、恐ろしい結末もあったかもしれない。

見ている景色が違う人たちが、新しい見方を発見してきた歴史も一定はあると思う。
アインシュタインやエジソンも発達障害っぽかったとか。
だからといって、彼ら一人一人の話に耳を傾けようとはならない。コストがでかすぎる。
社会は再現性(生産性)の高いものを求める構造になってしまったから。

本人の努力や姿勢の問題にしているうちは、我々はラクだったんだ。
だって彼らができないことを、受け入れなくていいからね。
だけどこうして「先天的にできない人」がいることを認めなければならないことが意味することは、「その課題のオーナーが我々マジョリティ側になる」ということ。
彼らを犯罪者にしない社会づくりをしないといけないってところか。

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