アートの真贋

美術や絵画といったアートが人の心を惹きつけるのは、作り手が誰なのかとは無関係にそれ自体が独立してもつ機能だ。アートに限らず、お気に入りの「モノ」があったとして、その作者が誰なのかなんてどうだっていいことだ。
見て触れて感動して、あとから作者を知ったからといって、その感動した事実は変わらない。

価値ある美術品には、見た目上は真作と変わりない偽物、贋作が存在する。
見た目上は全くわからないので誰かが「これは偽物だ」と判定しない限りは、偽物じゃない。
あるいは贋作を間違って真作判定して、後年それが覆る例もある。
その「本当は贋作である作品」が「真作だった期間」においては、人を魅了し続けたのは事実であろう。

モノの価値を見極めるうえで誰が作ったのかを特定することは必要だとしても、自分のような一般ピーポーが所有したり見て楽しむうえでは、見た目が同じなら真贋は関係ないと思ってしまう。むしろそれを明らかにしようとすることは、アートそのものが持つ「人を惹きつける」機能を無効化するんじゃないだろうか。
もちろんお金儲けのために偽物を作って流通させる行為は下劣極まりないが、それでも見た目が同じで与える感動量が真作と同じだとすれば、贋作であると知る必要がない。一般人にとってはね。

真贋の見極め方法で科学的にもっとも実用されているのは、「構成要素がすべてその時代のものか」を検査する方法らしい。顔料、キャンバス、キャンバスに残った筆の繊維を調べて、時代を確認する。AIによる筆跡鑑定はもちろん技術的には実用の域だと思うが、古美術は標本が少ないのでそこまで高い精度で判定できるとは思えない。プロの目利きやその鑑定書ってのは恣意がないとは言い切れないと思ってしまう。

真贋に執着すると、楽しめない。惹きつけられたなら、それでいい。すべては本物だ。

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