無茶を言うことに慣れきった

できないとわかりつつ、無茶を言うことが当たり前になった。
上から下へ連鎖し続ける。

社会が企業へ、企業(株主)が経営者へ、経営者が事業部へ、事業部が現場へ こうしてできっこない無茶が連鎖して、そんでもって増幅して疲弊する。
最初は「できっこないとわかりつつ、言ってみる」ところからスタートしたものが、少し達成しちゃったもんだから、「なんだ言えばできるじゃないか」になって、今日、無茶を発信するのが当然になった。

否、随分むかしからそうだったのかもしれない。だけれども経済全体が前に進んでるときは、多少乱暴でもぐいぐい進んで、幸せになる人がたくさんいて、なかにはこぼれ落ちる人がいても削りカスみたいな感じだったのだろう。

そうして溜まりに溜まった末端のストレスは、デジタルの世界に染み出ていく。SNSで他人を傷つけて貶めて、何とか自分より不幸な人間を見つけるために日夜スマホと向き合う。
あるいは、社会や政府に対する陰謀論の流布しはじめ、「コロナは政府が人口半減のために流している」とか言い出す始末。んなわけない。

さて、自分も末端の末端には違いないが、受け流すように暖簾のように生きていけたらいいと思ってる。ひとたび受け止めると誰かに跳ね返さないといけない。
あまり真剣に生きてもしょうがない。

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