理由が必要な世界

自分に限らないと思うんだけど、いつも理由が必要な世界で生きてきた。
宿題を忘れた理由、友達とケンカした理由、試合に負けた理由、仕事でミスした理由。

自分ではない誰かが納得できる理由がないと怒られた。
怒られたくないから、もっともらしい理由を考えるのが得意になった。もっともらしい理由ってのは、どれだけ「不可抗力」だったかを示す必要があった。だって、その理由自体が自分の怠惰によるものであれば、やっぱり怒られるからだ。

そうすると、他責思考にならざるを得ない。他人や環境のせいにできれば何とか生き延びることができた。みんなそうやって後付けの理由を説明するのが上手になった。

これが習慣化してきて、次第に「先に理由があるんだ」ということが体に染みついてきた。
本当は、どれも偶発的な事象で再現性のある失敗なんてそうそうないにもかかわらず、事象より先に理由があるはずだと考えるようになった。まるで理由を考えるのが賢者、理由がなければ愚者のようだ。

自分は、自分の人生の1つ1つの成功体験や失敗体験に、あとからもっともらしい理由を付け加えることはできるが、再現性があるのかといったら甚だ疑問である。他人のことだって同じだと思う。
いつもこれだという理由を説明できる人は、本当に賢者なんだろうか。理由が見つからない人が愚者なんだろうか。

もちろん仮説検証や試行錯誤を積み重ねていくことで理由を探し求めること自体は否定しない。
だけど、ほとんどの場合答えは見つからないし、あるいは見つかったとしても人を納得させるようなものじゃない。

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