鎧は言論を縛るのか

結論、人による。ではあるが、それではつまらないので考察したい。

これは、組織や職場において、スーツに代表されるフォーマルな服装を義務付けることは従業員の自由な言論を縛っているんじゃないかという問題。裏返すと、そうした鎧を脱ぎ捨てることによって組織や個人のパフォーマンスが上がるのではないかという仮説のもとにある問題。

生理的な面と心理的な面がごっちゃになってる感があるので、この切り口で考えたい。

1.生理的な面
人間の感覚である「快適さ」を不快指数や着衣量といった指標で数値化する「快適性評価」という考え方がある。本評価においてスーツが低評価であるというエビデンスは見つからなかったものの、経験的に長時間フォーマルな服装でいることは、それだけで疲れる。動きづらいことと体温調節しづらいことは、不快指数を上げている。不快さは当然にしてパフォーマンスを悪くする。言論を縛るという心理的な面とは少し違うかもしれないが、常識的に考えて不快指数の高い集団が生産的な言論を交わすことができるとは思えない。

2.心理的な面
これは良い面と悪い面があると考える。
①権威性の発揮(良い面)
フォーマルな服装だからこそ言論の場を獲得しているタイプの人はいる。傾向的に役職が上の人に多いと思われる。組織をリードするうえでは権威性を発揮することは重要であり、スピーチやプレゼンの場で適当なカジュアルでは威力は半減するだろう。このとき、鎧こそが自由な言論を保証する。
②同調圧力(悪い面)
一般に言われる部分はここだけだと思う。何も服装に限った話ではないが、シンプルに同調圧力を強めていると思う。皆で同じ服装をしなければならない、同じ道具を利用しなければならない、同じやり方をしなければならない、同じ考えを持たなければならない。次第に“個”は不要になる。結果的に、自由な思想や言論を縛る要素の1つにはなりえていると思う。

総括すると、不快だからやめちまえ。でも場面を選んで個人判断で武器として使え。という感じです。

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