ご機嫌さを忘れない

ごきげんよう。人生は問題ばかりだが、僕はご機嫌です。

さて、ご機嫌じゃない人、ご機嫌じゃなく見える人もたくさんいます。そういう人がいてもいいと思うけど、うまくいかないことに対して、不機嫌さをもって他者をコントロールすることが許されるのは子どもだけだと思っている僕には、他人の不機嫌は響かない。

これは僕的には、いかなる場面においてもだ。絶対の信念。

僕もきっと、この世に生まれ落ちてから3年くらいは、世界中の大人に聞こえるような声で不機嫌を発露していたと思う。記憶は定かではないのだが、声どころではなく全身で不機嫌をまき散らしていただろうな。そうしたら、周囲の大人たちは「どうしたの?おなかすいたの?おむつ替える?」と助けてくれた。怒りや悲しみをもって他者をコントロールする術を身に着けた。

その後、幼稚園だとか学校だとかいう、「社会」に出会った。社会では怒りや悲しみを発露しても、要求が通らないことを学んだ。そこには、同じ子どもだというのに下級生の世話をする上級生たちがいて、随分と大人に見えた。あぁ、こういうのを目指すのかと無意識に感じとったのだと思う。しかしその小さな「社会」で積み重ねた不機嫌さは、多少なりとも家族に対して発露していたのだと思う。

大人(という定義はさまざまあるが)になってからは、不機嫌さを表明する場所はなくなった。無論、不機嫌への状態遷移はあるが、発露させても僕の問題を解決してくれる人がいないことを理解してからは、「世界にお気持ちを表明する」という選択肢がなくなった。

これが、一応の「いつもご機嫌に過ごす」の定義である。
このブログ内でたまに発露していることには自覚的ではあるが、それによって誰かが助けてくれるとは微塵も思っていないので許してほしい。

とにかく、本日もごきげんよう。

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