「行動力が高い」は他者からの評価であって、本人的には「抑制力が低い」という悩みだったりする。逆に、「行動力が低い」を自己嫌悪に感じていても、他者からは「抑制力が高い」(=慎重である、冷静である)みたいな高評価だったりする。
こういう素質は自由自在に変えられるものではなく、無理して逆をいこうとすれば心や体に無理が来ることも多く、「憧れ」といった抽象的な感情で反対方向を目指すことはおすすめできない。
また、結局それらは場面によって異なるもので、得意な分野か不得意な分野かで行動様式は随分と変わる。だから、自分にとって決まりきった属性のように捉えることも違う。
僕らは「性格」をあたかも属性かのように捉えるよう訓練されてきたと思う。自己紹介だとか自己分析だとかで、「私は○○な性格です」「私の長所は」「私の短所は」というラベルを無理やり貼ることを強要されながら大人になってきたわけだが、やっぱり性格ってのは属性ではなく振る舞いだと思う。
自分は、幼少期からこれに近い感情を持っていた。無論ここまで言語化・メタ認知できていたわけではないのだが、決定的に覚えていることは、自分自身の友達への接し方と家族への接し方がまるで違うことにコンプレックスを抱いていたこと。だから、家にいるときの自分の振る舞いを友達に見られるのはイヤだったし、逆も然りだった。その感情によって輪をかけて自分の性格にウラオモテがあるんじゃないかと、最低な人間なんじゃないかと自己嫌悪に陥ることもあった。
だけど、社会にでたら僕より(いわゆる)ウラオモテがある人が、たくさんいて安心した。次第に、性格ってのは属性ではなく振る舞いであって、ウラとかオモテとかは他者の評価に過ぎないと理解した。これによって内面的なコンプレックスを克服した感じがした。
自分の性格に悩むなんておかしい。犯罪をしたり他人に迷惑をかけたりしなければあとは場面に応じて自由に振る舞えばいい。得意な場面では前に出て苦手なところでは引っ込むことは、全然卑しくない。むしろそれは自分と周りを幸せにする第一歩だと思う。