理由など、あってないようなもの

エビやカニを大好物とする人が、イナゴをみて「造形が気持ち悪いから食べられない」と言った主旨の話をしていた。
ゼロベースなら、エビのほうが、いやカニのほうが、絶対気持ち悪い。
あの甲羅の裏にあるドロドロした茶色い液体とも個体とも言えない気味の悪いものを、我先にと啜っては感嘆しているのだから滑稽だ。

「人は見たいように見る」とはよく言ったもので、理由はあとからでも、いくらでもつけることができる。

ところで、組織では、「何を言ったかではなく誰が言ったか」が重視される傾向にある。
同じ発言でも上の意見は迎合され、下の意見は批判される。
ある1つの主張に対して、賛成もできるし反対しようと思えばテキトーな理由をつけて却下できる。
「エビとカニはおいしいからOK、イナゴは気持ち悪い」というように図る物差しを変えて「これが もともと考えていた 理由だ」という顔をして、その場しのぎの理由を真剣に語りだす。

そんな人たちのことを信用しろというのは、俺にはとても難しいことだ。
理屈で覆すことはできると思う。だがそれも時間の無駄だと思ってしまう。論理をすり替えて「お前は未熟だ」「昔はこうだった」と武勇伝みたいなのが始まるのが目に見えている。
そこに自分の寿命を費やす時間がもったいない。

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