「不要だからやらない」と考える

Excel方眼紙の設計書がメンテナンスされてなくて、ちゃんとやれと怒り狂うおじさん。
その歴史を何年続けますか?まずこちらに回答いただきたい。

やらないことには、理由がある。
なくなったものには、理由がある。
なぜそう考えられないのだろう。本当に必要なものだったら維持される。

最たるものはソースコード。顧客に対するコミットそのものであり、逆にこれがすべてである。仮に、100万行のソースの内容が、Excel方眼紙に「過不足なく」「寸分の狂いもなく」維持されていたとして、それに何の価値があるか。プログラムを読めない偽物のエンジニアのために、本物のエンジニアが2倍、3倍の労力をかけて維持することを、本当に望むのか。

あまり二元論に持ち込むのは好きじゃなく、なんだってグラデーションがあるとは思うのだが、もし維持するとするならば100%でなければならない。「過不足なく」「寸分の狂いもなく」だ。
だってそうでなければ、やっぱりソースコードが正しいになってしまうから。
やるからにはプログラムと日本語の設計書が、全く同じかどうかを検査する労力がとてつもなくでかい。これをわかってない老害が多すぎる。
前後の文脈はあらゆる引数に左右され、厳密に「同じ」であると、俺には到底言い切れない。

ソフトウェアを粘土か何かで作った唯一無二の彫刻だとして、それを別の素材でもう一つ同時に作っていく作業をイメージしてほしい。それを本当に、やるかどうかだ。
ちょっとでも違ったら意味がない。
だってお客はオリジナルの彫刻の造形にしか興味がないんだから。

俺だったら同じ(と思われる)ことを絶対に書くなと言いたい。同じかどうか検査できないから。日本語で全く同じことを書いて維持しつづけろなんて、逆にものづくりをナメてると思う。

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