「これさえあれば何もいらない」は、いつも幻想だった。
小学1年生の頃、かっこいい自転車があればあとは何もいらない。誕生日もクリスマスも何もいらないと思っていたが、マウンテンバイクが手に入ったら次はゲームボーイが必要になった。ゲームボーイが手に入ったら、次はスニーカーが欲しくなった。こう書くと何でもかんでも買ってもらえる裕福な家庭のように映るかもしれないが、決してそうではなくむしろ逆だったと思う。
とにかく、物欲が人生をいっとき豊かにしてくれることはあっても、ドーパミン的な幸福・増幅装置・底なし沼に違いなかった。次第に大人になり、欲しいモノが一定買えるようになってもそれは続いた。もっと言えば「これさえあれば」「ぜったいこれがほしい」という強い衝動が生まれる前に「あったら今よりいいかも」くらいの時点でもうポチってるというのが現実だ。
そういう大量消費に対する罪悪感や自己嫌悪みたいなものが心のどこかにずっとあった。次から次へと欲しいモノを思考停止で買っているのではないか、まだ使えるものを次から次へと入れ替えていいのだろうか、お天道様や死んだじいばあが見てやしないだろうか、子供の頃に我慢していた反動反応だろうかといったように。
この葛藤は、もう何年も続いている。
だけど、最近ここに答えを出しはじめている。結論、今のままでいいんじゃないかって。
僕は消費しているのではなく、改善へ投資している。改善の対象は、自分か誰かの人生。ここでの人生というのは、おおよそ「単位時間あたりの幸福感」のことで間違いない。そのためには、買って捨ててを繰り返しても致し方ない。べつにブランド物や高級品を買うわけではない。機能や利便を買って、自分か誰かの単位時間あたりの幸福感の最大化を目指している。モノ以外のサービスや体験も含めて。