出光興産を創業した出光佐三の一生を、国岡商店を創業する国岡鐡造として描く。
時代は、1910年~1945年(終戦)まで。
この時代は、軍国主義のいけいけどんどんで、各国をなぎ倒して植民地化していった大日本帝国時代。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、アジア諸国入植。からの第二次世界大戦。
国岡は学生時代に石油に目を付けた。当時日本の主要エネルギーは石炭であったが、アメリカでは石油で動く自動車が開発されていることなどを知り、これだと直感した。
大企業に就職したり官僚になったりする仲間を尻目に、小さな商店に就職したのち「国岡商店」を創業。泥臭く働いた。
創業当時は誰も見向きもしなかったが、あの手この手で石油の取り扱いを増やしていった。
1つのきっかけは、販売協定をやぶって下関の海上で漁船への給油を始めたこと。これが海賊の異名になった。役人に対しても親会社に対しても、「大地域小売業」「消費者のため」といった強い信念を押し通し、底知れない男という認知を得ていく。
そして満州への進出により、さらなる拡大を狙う。当時満州鉄道の石油はすべて外油だったものの、性能で圧倒して無事取引を獲得。これをきっかけにアジア諸国に支店を展開していく。
上海進出では、外国企業が「クニオカ」を警戒して、競合したら破格のダンピングでつぶしていく作戦を立てていたわけだが、国岡商店は囮の販売店を出してはその地域を避けてゲリラ的に石油を販売するというヒットアンドアウェイを繰り返して、外国企業を一蹴した。鐡造本人は日本にいたわけだが、社長不在の上海でこうした機動力・統制力を発揮できることに外国メジャー達は一層戦慄した。
取り扱う製品が石油だったことやアジア各国に販売エリアを広げていったことは、当時の軍国主義の流れと相まって、否応なしに戦争に巻き込まれていく。
それまで役人や軍人に馬鹿にされたり敬遠されたりしてきた国岡商店だったが、鐡造はお国のための協力を惜しまない。そうした見返りのない姿勢に皆惚れていく。
(刺さったセンテンス)
黄金の奴隷たる勿れ、国岡の連中は働きすぎます、人物重視です、愚痴をやめよ、一緒に乞食をやろうや、(各支店長は)一国一城の主、人こそが資産だ、うちの店員はどこにも負けない、
出勤簿もなければ就業規則もない、馘首も定年もない。
生粋の商売人だけれどもカネカネカネという感じでもなく、目先の利益よりも人材育成、事業継続よりも日本の将来が大事という稀有な男だったらしい。渋沢栄一に通ずるところがある。