長期的にはマスの空想は信用に値する

小学5年生の息子から質問を受けた。22世紀になったらドラえもんがいるのか。
質問というか、最近は議論のためにふっかけてくる雰囲気を感じる。

答えは、それを望む人の数で決まると回答。答えになってないことをお詫びしつつ、次のとおり説明した。

1.昔は何もなかった。
3000年前は、日の出とともに起床し裸で狩猟して火を囲んで暖を取り日没とともに寝るだけだった。次第に、衣服を纏い、住居に住み、言語を開発した。生活が安定してきたら、物を交換し、その価値を貨幣で定義した。その後は戦争と略奪を繰り返してはその勝利や復興のために産業を興し続けた。電気、電話、コンピュータ、車とかは、直近200年くらいの歴史。

2.人々がそうなりたいと思う方向に進んできた。
基本的に、「多くの人がそうなったほうが良い」と願う方向に開発は実現してきた。
遠くにいる人と連絡したいと思う から 電話が誕生した
痛くないように手術してほしいと思う から 麻酔が誕生した
いち早く目的地に着きたいと願う から 飛行機が誕生した

3.長期的には、なぜか論理性より想像力のほうが信用できる。
1000年前の人に、「地球の裏側にいる人と会話できる」「腹を切り開いて安全に手術できる」「空を飛んで大陸間を移動できる」と言っても絶対に信じてもらえないけど、いつの時代もそうした空想だけはあったわけだ。だから、「その時代を生きる頭の良い人の見解」より「多くの凡人の空想」のほうが信用できることになる。

ということで、多くの人がドラえもんの誕生を望めば100年後にいるかもしれないと説明。
その後もディスカッションをして、本人的には「どこでもドアやタケコプターといった、道具単位で発明されていく」ということで納得したらしい。

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