『峠』(上)

河合継之助の江戸遊学から池田屋事件あたりまでを描く。

江戸では、古賀謹一郎の弟子となり久敬舎に寄宿。
横浜開港に感銘を受けスイス行商人ファブルブラントと親交。
備中松山への遊学で山田方谷先生に弟子入り。
長崎遊学でいよいよ幕府体制の終わりを確信。
一旦長岡に帰る。藩主牧野忠恭が京都所司代になりそう。
どうせ幕府体制は終わるからやめておけと(部下の立場ながら)猛反対。
その意見書に感銘した忠恭が、河合を京に呼ぶ。
そんで池田屋事件。

中巻・下巻も楽しみ。

良かった文節
・陽明主義は「知識を精神のなかにとかしきって行動のエネルギーに転化するということ」
・些少な事象をみても大きな問題に結び付けたがる思考癖をもつ。
・じつをいうと、おれは妙な工夫をしながら生きている。
・言っておくが、青くささのない人間はダメだ。枯れて物分かりがよくなった人間が幾千万おっても、今の世はどうにもならぬ。
・拙者の望むと望まざるとにかかわらず、近い将来にそうなる、と申したまでです。つまり明日は雨になるか雪になるかそれとも晴れるかという天候の話と同様です。
・書物に知識をもとめめるのではなく、判断力を研ぎ、行動のエネルギーをそこに求めようとしている。
・不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、とうてい人物とはいえぬ。
・京都の景色を初めて見て。「その野鳥でさえ、美のために飛んでいるとしか思えない」
・この世でぶちまけて表現し、燃焼しきってしまわねば怨念が残る。怨念を残して死にたくはない、という思いが、継之助の胸中に常に青い火を放って燃えている。
・人間はな、店舗と同じだ。場所が大事である。人の集まる目抜き通りに店を出せば繁盛するように、古賀塾におれば学問はせずとも自然に耳目が肥える。田舎の三年・京の昼寝だ。
・これが俺の原則だ。同時に長岡藩の原則でなければならぬ。人は原則をもたねばならぬ。
・継之助には、翼があるのだ。
・断言癖がある。それは良し、それは悪しと断乎としていい常にその議論が明快で、そうともいえるしこうともいえるといった類のほかの日本人が常に使いたがる曖昧な言葉を使わなかった。

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