大久保先生

今考えると、すごい先生がいたものだと思う。

小学校5年生か6年生のときの担任だった。生徒に対して「お前ら人間じゃねぇ」と言うのが口癖だった。それはたとえば次のような状況で発動された。

学級委員長を決めるとき。
一般的な感覚だとリーダータイプで人気者が務めるものと相場は決まってる(一般的という表現は定義が不鮮明だが許してほしい)。1クラスに2~3人くらいの候補に絞られると思う。そういう子たちが、立候補するかあるいは多くの推薦票を得て委員長に就任する。
ところが、大久保先生のクラスになると、全員が立候補するようになる。そうならざるを得ない。クラスにはどう考えてもリーダータイプではない内向的な子だっているのに、そんな子たちもみんな立候補する。そうしないと、めちゃくちゃ怒られるからだ。
大久保先生の理屈はこうだった。「クラス代表になりたい気持ちを、本当はどこかにみんな持ってるはずだ。それを他人の目を伺ったり遠慮したりして言い出せないだけなんだ。お前らは人間だろう。人間は意思を表明することができる。ならば立候補しないでどうする。ここで手が上がらないやつは、人間じゃねぇ。」(記憶からの再現なので脚色あるかも)

いや、最初からおかしい。心の底から「クラス代表にだけはなりたくない」人のほうが大多数だと思うぞ。この調子で、全員の手が上がるまで「人間じゃねぇ」を繰り返す。もちろんどんどん語気は強くなっていき、何度も「もう一度聞くぞ?委員長になりたい人は手を挙げてください。」→「人間じゃねぇ」がループされる。クラスの全員が立候補するまで帰れないので、どんな内向的な子も最後には手を挙げる。自白の強要に近い。

このあと、手挙げした者のじゃんけん大会で1名が決まる。つまり全員でトーナメント戦。
完全なガチャ、全員不幸確定。リーダーになりたい人はその座につけない。なりたくない人は図らずも就任してしまう。クラス全体にとっては、希望するリーダーを立てられない。
今考えると無茶苦茶だが、当時はクラスが団結している感はあった。大久保先生は一応は熱血教師タイプで、「誰一人取り残さない」的な強烈な思想があったように思う。
だが、身体的な暴力こそないものの、精神的に追い詰められた人は、結構いると思う。

学級委員長を決める以外の場面においても、「生徒が生徒の意思で自主性を発揮できうる場面」においては、全員が手を上げないと「お前らは人間じゃねぇ」と必ず言われた。
そうして、どんなときでも全員が手挙げする軍隊へと私たちは相成った。

リーダー養成スクールと違っていろんな子がいるので、やっぱりそこまでやる必要はなかったと思う。彼らの一人一人のその後の人生はわからないけども、裏方が得意なフォロワータイプがいたり、右腕になる副長タイプがいたり、そうやって組織を学ぶのも大事だと思う。

ポイントは、最後のほうになると「人間じゃねぇ!」って語気が強くなるところ。
もし当時のクラスメイトがこの記事を見ていたら、良い酒の肴になってると思う。

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