子どもの頃、両親は生鮮スーパーを営んでいた。お店の名前は、ハタヤ。
小さな田舎町で近くにコンビニもスーパーもなかったので、地域の役割を果たしていたと思う。
父も母も基本的には毎晩20時頃までお店に出ていたものの、店舗と自宅は100mくらいしか離れていないので、まったく寂しくはなかった。困ったら店に行けば母も父もいた。
夕方になると母は夕食をつくりに家に戻ってきて、一緒に食事をしたあとまたお店に戻るのだった。それに着いていくことも多々あった。
母に付き添って店に行き、閉店後のお店の掃除をしたり、そのご褒美で売り場のアイス(スーパーカップチョコチップバニラ)をもらったり、あるいはゴム鉄砲で射撃大会をしたり、やっちゃいけないことをやってる感が好きだった。家族以外誰もいない夜の店内が好きだった。
たしか自分が小学3年生だったころ、店舗を改装し、クリーニング店を併設し、カメラ現像のサービスも開始した。アルバイトさんも2人くらい増えたと思う。
以来、カメラ現像窓口のバックヤードが大好きになった。
フィルムの匂い、機械に囲まれた部屋、廃棄される大量の写ルンですに わくわくした。
つま先が着くか着かないかくらいの回転いすがあって、くるくる回りながら思いつくイタズラの限りを尽くした。
正面入り口側では、焼き鳥の露店販売もやっていた。ここを担当するアルバイトのお兄さん(たぶん当時18歳くらい)と仲良くなった。色黒で反町隆史みたいな感じのガチのイケメンだった。名前はタケトモ。呼び捨てにして追い掛け回されては、優しい抱擁で捕まえてくれるのが好きだった。
そんな大好きなハタヤは、自分が小学5年生のときに突如 倒産した。
同年、お店を裏方で支えていた祖母も逝った。
債務超過で数千万円単位の借金だけが残った。これは大人になってから両親から聞いたのであって、当時は「倒産」の意味もよくわかっていないので、「なんとなくまずいことが起きた」くらいの認識だったと思う。
倒産後は、父も母も働きに出た。父は会社員となり母もアルバイトを始めた。夜は二人とも別の仕事を掛け持ちしていた。とにかく両親とも夜となく昼となく働いていた。当時を振り返って酒を飲むと、超貧乏だったと母は言う。
だが、ぼく目線では「決して裕福ではない」ことは理解していたが、だからといって友達と比べて特別に貧乏だとも思ってなかった。だがそれは勘違いらしい。特別に貧乏だったらしいのだ。
両親を心から尊敬している。だって僕は幸せだったから。
兄や弟は、どう感じてたんだろ。今度会ったら本音を聞いてみたい。
ちなみに、当時の借金は、2022年11月をもって完済したと聞いた。
おとうもおかあも頑張ったね。
今日現在で2人とも57歳。会社勤めはとっくにやめていて2人でまた自営業をしてる。
まだまだ働くらしい。そろそろ休め。あとは俺らに任しとけ。