昨晩、所用で上野まで来た。ここ数日続いていた雨の鬱憤を晴らすかのような人出と桜並木の好迎に誘われて、不忍池をふらっと歩いた。
さて、「きれい」には2つの意味がある。
・見た目が美しくきらびやかな様子
・汚れや余計なものがなく整った様子
英語では「beautiful」が前者の意味を強くもち、後者の意味を強く出したいときには「clean」という表現がある。日本語の「きれい」は文脈をもってこの二つを分けることはできても、その単語だけではどちらなのかはわからない。
すると、「きれいな景色」を作ろうと思ったら、その設計には必然的に両方の意味が含まれることになる。作業段階においても、前者を想像しながら作業する人と、後者を想像しながら作業する人がいて、最終的に二つの意味を両立した状態が形成されるんだと思う。
すなわち日本の良い景色は、オラオラギラギラした「beautiful」にばかり傾倒するのではなく、同じくらい「clean」にも重点を置いている。これが「侘び寂び」といった価値観や評価につながってるような気がする。
言語が、国の文化や国民性に影響している一例ではないかと思う。
「きれい」って言葉に二つの意味を持たせた人、えらすぎ。