2011年3月11日、会社の7Fで通常業務をしていた。入社3年目とかだったと思う。
自分は、ちゃんと避難した。余震が何度もあったのでそのたびに上り下りしたわけではないのだが、3回程度は屋外まで避難した。同じ部署でそういう行動をしている人は2~3人だったと思う。
フロアでは、「仙台がやばい」と(当時)部長がしきりに言ってた。YouTubeでニュースを見てたんだと思う。どす黒い津波が街を飲み込んでいく様子に震えあがってた。仙台営業所にいた時代を思い出していたようだ。
出張組の安否確認とサービスの運転状態の確認が急がれた。とくに自分のチームは自分以外の多くが外出していたため、日常業務は完全に停止した。
本社はさして被害はなかったものの、個人的に気がかりなことがあった。仙台に暮らす1つ上の兄のこと。両親からも「○○(兄)が心配だ、大丈夫だろうか」と何度か連絡がきた。無事であることは一報が来てるらしいのだが、いたずらにスマホの電池を減らすと悪いため、電話も鳴らせないし、そうした想いだけが錯綜した。
その晩は、同期との会合を予定していたが、中止の連絡をいれたところ1人がどうしても飲みたいと言ってきたので軽くだけ付き合った。身の上話を聞いた。自分は心ここにあらず、あまりその時のことは覚えていない。1時間ちょっとで解散した。
帰宅後、とある作戦を練ってから寝入った。
翌朝早朝から 兄の奪還作戦 を開始した。両親を車に乗せて仙台に向かった。
あまり情報もなかったが、高速道路は通行止めに違いなく、海岸線から北上して南陽・上山・山形と抜けて、48号で仙台に抜ける作戦にした。こういう行動はマクロ視点では良くないことは理解していたが、「そうも言ってられない」としか言いようがない。つまり、第三者が納得できるような弁解は持ち合わせていない。
おおよそ想定したルートで、通行止めに出合うことなく進んだ。我ながら良い作戦だった。
道中は、自衛隊の車両や救急車両、ばかでかい重機に何度も出くわした。山形の中心部あたりからは信号が機能しておらず、左右の車に目くばせしたり手で合図しながら進むような状態。街は全体的に暗く、一夜にしてゴーストタウンになったかと思うほどだ。
仙台駅に近づくと、至るところに人だかりができていた。まずはコンビニの行列。もちろん電気が来ていないのでレジスターも冷蔵庫もATMも動いていないが手計算で勘定しているのだろう。外から見ても陳列棚はすでにすっからかんだったがそれでも人が行列を成していた。
次に、タクシー待ちの行列。何としてでも脱出したい人は、東京までタクシーで帰る人もいたそう。特に駅前はすごかった。疲れ果てて地べたに座り込む人、ただただ何かを諦めたかのような顔でそこに突っ立ってる人、一縷の希望にかけてタクシーに並ぶ人、家財道具を持って一心不乱に歩き続ける人。駅のロータリーに車で入っていくときは気が引けた。
到着して無事落ち合った。人だかりのなかから出てきたところを、一瞬でさらった。
本当に、さらうようにして出発した。「俺も乗せてくれ」的な人の目がきつかった。兄と兄の友人(岐阜県に帰りたい人)を乗せた。これが正午頃だったと思う。
同じ道で帰りはのんびりと帰った。新潟に入ってレストラン三宝で食事をした。
岐阜の彼は一泊うちに宿泊して、翌朝帰っていった。(駅まで送ったんだっけな、覚えてない)
数日後に、見知らぬ名前からりんごのお菓子が届いた。差出人欄に岐阜県の文字。
お礼としてもちろんありがたいが、こうして無事を知らせてくれたことに一同胸をなでおろした。